馬の記憶

もう5、6年前になろうか。馬に乗る機会があった。当時勤めていた職場に、乗馬体験のチケットがまわってきたことがある。近隣の乗馬クラブが配ったもので、複数枚の券が職員室の壁に画びょうでとめられているのを目にした。しばらくの間、人が出入りするたびにひらひら揺れていた。

私は当時バイクの免許を取ってから半年程度経過していたと思う。二輪の世界に誘ってくれた50ccのスーパーカブと別れて、250ccのバイクに乗り換えたころだろう。

<生身の馬にも乗ってみるか>
二輪とイメージが似ていることも手伝って、職員からの無関心を託つチケットに手を伸ばした。

私が対面したのは6歳の牝馬だった。葦毛の馬である。サポートしてくれた女性のインストラクターはとても明るい性格をしていた。

「さあ、勇気を出しておもいっきり熟女にまたがっちゃってください!」。そう促されて笑うしかなかった記憶がある。

初めは乗馬状態でインストラクターが手綱を引いて馬場を周回したのだが、視点の高さが印象に強く残っている。胴体を蹴って左右に曲がる指示を与える体験もした。「次は並足です」とインストラクターが告げる。手綱が私に渡される。馬が通常速度で歩きだした。ゆったりした動きであるが、腰が大きく上下左右に揺れ出す。両足の鐙に踏ん張り、重心をやや後ろに意識した。つまり仰け反りぎみの姿勢になる。落ちないようにバランスを取る必要が生じた。馬はやはり生き物だと思った。

すじが良さそうだとインストラクターが言ってきた。本来体験プログラムとしてはここで終わりなのだが、もう一段階上の乗り方に挑戦してみるかと尋ねてきた。並足で乗馬は決して快適なものではないとわかったが、なんだか引き下がれなくなった。

かけ足というものをやることになった。今度は馬が前後の足をももあげのように、大きく上げ下ろす。私も鞍から腰を浮かせて、馬の動きに合わせて身体を上下動させるのだが、なかなか息が合わない。姿勢はやや前傾、中腰で屈伸運動のような動きを繰り返す。だんだんこちらの息が上がってくる。次第にインストラクターの指示のおかげで、馬のリズムを捉えられるようになってきた。馬との一体感、つまり人馬一体という感覚の初歩の初歩らしきものを得られたところで、鞍から降りた。まだ乗っていたいなと思った。

もっと元気な馬が合いそうだとインストラクターが私を厩舎に案内する。<えっ体験終わりじゃないの>と戸惑ったが……

その馬は若い牡馬だった。体毛は黒鹿毛、私を前にして鼻息が荒く所作も激しい。ゆっくり近づいた。すぐそばに立った私に、彼は顔を擦りつけてきた。その力は強いが拒絶するような乱暴さはない。どうやら気に入られたらしい。たいへん嬉しかったが、私の乗馬体験はここで終わった。

インストラクターが入校手続きを進めるなかで、我に返った。かかる費用がけっこうな金額だったのである。あくまで体験として来たのだと自分に言い聞かせた。

私の愛馬になるかもしれなかった馬は、スリーピーという名だった。わずかな時間だったが、触れあった記憶はまだ生々しい。彼は今、悠々自適の日々だろうか。

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6 件のコメント

    • 「短編小説ですね!」
      その表現で感想を伝えたかった

      僕の頭に浮かんだ言葉は
      「めっちゃええ話しですね!」

      自分の文才の無さに驚愕した

      • だてさん、ありがとうございます。あの馬も歳を重ねたでしょうから、おだやかな日々を過ごしていてくれると嬉しいです。

    • お読みくださってありがとうございます。
      短編小説……書き出すとなぜかこんなふうになってしまいます(^^;

    • 原さん、ありがとうございます。スリーピーは厩舎で出会った若い男の子(当時)でした。もし入校したら一緒にトレーニングしたかもしれません。ほんの一瞬でしたが、彼に受け入れてもらえた記憶は、私の宝物です。

  • fushikian へ返信する コメントをキャンセル

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