社会に絶望しても大丈夫。意外と世の中おもしろいぞ②

こちらの記事の続きになります!

前記事にも書きましたが、僕は工業高校でしかも稀に見る偏差値の低い学校を卒業しました。
周りを見渡せばヤンキーがごろごろいて、半端なかったんですが、しっかりと勉強すれば普通に就職斡旋までしてくれる良い学校でした。
たぶんまともに学校にいってる奴はだいたい就職できたんじゃないかな?っと思います。

まぁーがんばって高校のときは勉強して大手の設計事務所につとめることができました!本当にこの時はうれしかった。

予想できるはずのない出来事

僕が社会人になったのは2009年です。この時世の中がどうなっていたかというと、リーマンショックがあった年です。

設計事務所はもろに影響があり本当に会社が大変な時に入社しました。

入社したとたん、どんな環境だったかというと

  • 高卒で社会の右も左もわからない奴ができるはずのないレベルの課題
  • 毎日大量の課題
  • 上司の理詰
  • 先輩たち疲弊しまくってる中で誰にも質問しようがない

自分が思い描いてた社会人っていうのはそこにはなく、かっこいい大人が1人もいない環境でした。なんだこれ。。。って感じ

そして、同期で入社したメンバー8人中2人は大学生で6人は高卒でした。
で、1回目のGWに入る前には同級生が2名になりました。

GWに入り、趣味でお世話になっている先輩たちとも会い、話しているうちに今の会社に大事な10代最後を捧げるわけにはいかないだろう・・・
そもそも社会ってこんなんだったっけ??
こんなことばっかり考えるようになりました。

そしてGW明けて会社に行こうと思い歩き出したんですが、”多分もう行かない方がいい”っと思って会社を後にし、後日辞表を提出して退職しました。

ここまでかかった期間 1ヶ月・・・
自分が思い描いてたものと解離しすぎていて、尚且つリスペクトできる先輩もおらず、ただ言われたことをやる環境に自分が耐えられず逃げました。
この時完全に世界は自分の手元しか見えてなかったように思います

だから社会に絶望しました。

フリーターになりました

ニートになるわけにも行かなかった為、学生時代にお世話になっていたコンビニ配送の倉庫内作業のアルバイトに復帰させてもらうことができたので、退職した翌日からアルバイトすることができました。

この時のセンター長をはじめ、周りのおっちゃん、おばちゃんたちには今でも感謝してもしきれないぐらい、可愛がってもらいました。

朝から夜の22時までずーっと蒸し暑い倉庫の中でひたすら重たい荷物を運んでいました。だけど、この単純な仕事が楽しかったです。
みんなも優しいし、みんなで力を合わせて1日の物量をこなしていく事が快感でした。
ここなら社員になってもいいかなーっと思ってセンター長に話をして、社員にならせてもらえることになりました。

だけど、ある日一緒に働いてるおっちゃんが怪我で入院することになりました。

この時初めて気付きました

“ここは一生働ける場所でも仕事でもないんだ”

一生働ける仕事を探す必要があると思いました
なぜなら、この時自分の将来になにかしらの不安を描いてたからです

真剣に考え、小学校から慣れ親しんだパソコンを使った仕事につきたいと思うようになりました。

自分の未来を切り開くために必死

とにかくパソコンを使う仕事につきたいと思ったけどこの時の僕のステータス

  • 19歳 フリーター
  • 最終学歴高卒
  • PCスキル ブラインドタッチ 簡単な音楽の編集 簡単な映像編集
  • ヨーヨー アジア4位

もはやスペックが謎すぎる挙句、実務経験もないような奴だった為学校にいくことを考えました。

しかし、お金もなく、実家ももちろん支援してくれず、”パソコンの仕事なんか流行り物やからやめとけ”っとか”そんなん学校いってもお前遊ぶだけやろ・・:”っとか信用0の状態でした笑

投資価値0の人間って本当につらいですよ

なので、これは実際に働いて学ぶしかないと思い、就活をスタートしました。

10社書類を送って9社書類で落とされるような感じでした。
そして1社のみ面接まで通してくれました。
この1社が僕の人生の分岐点となることは、この時全く想像していませんでした・・・

面接に行った先はある意味すごい会社だった

僕はこの1社の面接に全てをかける決意をして、面接会場に行きました。
スーツをバシっと来て、履歴書もPCで作成し、自己PRの文章もA4の原稿にビッシリ書きました。

で、面接会場であるオフィスに行って周りを見渡すと遺影写真がいたるところに展示されていました。

そう。遺影写真をPCで加工している会社だったんです(そこまで見てなかった笑)

びっくりしましたが、瞬時に”ここならフォトレタッチを学べる”に考えをシフトし、今までにしっかりと自分の思いや必死差をアピールしました。

それでめでたく合格し、まずはアルバイトとして入社することができました。

このとき、社員のお話をいただいていた倉庫内作業のセンター長にはとにか頭をさげ、社員のお話をなしにしていただきました。
その代わり、1年間の休日はできるかぎりセンターに顔をだして、無性でお手伝いをしました。それぐらい感謝していました。

次回に続く・・・

これ以上書き殴るとすごいことになりそうだったので続きは次回!

今回のここまでで伝えたいことは、
・絶望しても、行動することで道は開けていくのはマジ
・自分に正直になって思い切った行動をした後はケツふくのも自分でやること
・お世話になった人、助けてもらった人には全力で感謝して恩返しを必ずする
この3つをやったことで、この段階で既にかなり成長できたように思いました

この時まだ19歳で、周りの19歳と比べて圧倒的に人生の厚みが変わりました。
ただ、ちゃんと自分で責任をとるってこと。これは本当に大事。

それでは次回!!

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6 件のコメント

  • 面白すぎます!
    次回が楽しみで仕方ないっ。
    私事ですが、30歳で職業訓練校に行き、
    やっとでwebクリエイターの資格を取得し、
    就職活動したら、、
    「即戦力じゃないのでいらないです。
    しかも、30過ぎの初心者はコーダーでも使えませんよ」
    と門前払いだった事を思い出しました。

    「絶望しても、行動することで道は開けていくのはマジ」 

    この言葉を信じてこれから、行動していきます〜

  • 謎のスペックの所で笑ってしまいました笑
    「ここは一生働ける場所でも仕事でもないんだ」ずごくわかります。私もそこから動き出した所です。次も楽しみにしています。

  • この記事の書き方のレベルがズバ抜けてて、皆の憧れの存在になってしまってますやーん(笑)

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    ABOUTこの記事をかいた人

    Shinya Azuma

    デザインとかwebとか映像とかやってます 結構飲めます 最近バスケちょっとやってます ヨーヨーやってた人かもしれません。2020年ダイエット中